伊藤貞司 戦傷を負いフィリピン・ネグロス島に歿す

伊藤貞司 戦傷を負いフィリピン・ネグロス島に歿す

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 1946年(昭和21)8月。静岡市用宗に住む父親に公式な死亡通知が届いた。
 「陸軍中尉伊藤貞司、右昭和20年9月20日ネグロス島バゴロドニ於テ戦傷死セラレ候」。22歳。兵役について1年9か月後のことであった。

 1923年(大正12)2月26日、静岡市人宿町で生まれた貞司は、1940年、県立商業学校を優秀な成績で卒業。同年1月には静岡大火で実家の店舗住居を全焼したので、自家復興のため家業に従事した後、1942年、徴兵猶予のある名古屋高等商業学校に入学し、学生生活を始める。その後1年間父との頻繁(ひんぱん)な書簡の往復がある。時局が緊迫している最中なので、進路について、大学進学か軍人になるか、揺れ動く気持ちを父に訴えている。ようやく意を決して東京商科大学(現一橋大学)を目指して猛勉強を始めたことも伝えている。
 1943年10月、徴兵検査のため帰郷。その後指導教官から「卒業後進んで兵役につく道を選ぶのが安全」との話を聞き、心が揺れる。1943年11月名古屋高等商業学校仮卒業。そして幹部候補生採用願を提出する。そこで軍人の道に進む決心をしたのだった。
 1946年2月、戦友から両親宛てに葉書が届く。フィリピンのネグロス島で、1945年8月13日グラマン戦闘機爆撃により貞司は傷を負った。8月末に、部隊は米軍に投降した。すぐに病院に収容されたが、9月、傷が元で死亡したことを知らせる葉書だった。

フィリピンの人びと
 日本軍は真珠湾攻撃直後の1941年12月22日に、当時はアメリカの植民地であったルソン島に上陸し、翌年1月2日に首都マニラを占領した。この時フィリピン防衛にあたっていたのは米軍極東陸軍であり、司令官はダグラス・マッカーサーであった。
 1942年4月から5月にかけてバターン半島とコレヒドール島に立てこもっていたアメリカ軍とフィリピン軍は次々降伏し、6月には戦闘はほぼ終了した。マッカーサーはオーストラリアに退去した。
 この戦闘で日本軍はアメリカ軍とフィリピン軍の捕虜と難民を管理下に置いたが、捕虜収容所移動の際100㎞を越える距離を歩かせ、アメリカ人2330人を含む7000~1万人が死亡する出来事(「バターン死の行進」とよばれる)があった。

 フィリピンはアメリカ植民地となってはいたが、独立派の活動で徐々に自治が認められ、1934年にはアメリカ議会は10年後の独立を認めていた。
 日本軍による占領の結果、アメリカへの経済依存度の高かったフィリピンは困窮し、日本軍の軍票(紙幣代わりに日本軍が発行した紙)濫発でインフレーションが発生した。上述の「バターン死の行進」もあり、フィリピンの人びとの反日感情は強く、日本軍への抵抗は根強かった。フクバラハップ団とよばれる農民・労働者のゲリラや、もとのアメリカ軍・フィリピン軍将兵らのゲリラをはじめ、100以上の組織が抵抗を続けたといわれる。

 1944年・45年はフィリピン奪回を目ざす連合国軍(マッカーサーが還ってきた)と占領日本軍との間で、激しい戦闘が繰り広げられた。
 アジア太平洋戦争において、フィリピンでは50万人以上の日本人戦没者が出ている。しかし、日米決戦の地となったためにフィリピン政府の推計で100万人を超えるフィリピン人が死亡した。1945年2月の「マニラ市街戦」では民間人10万人が亡くなったといわれている。東京大空襲死者や沖縄戦死者と同じ規模の犠牲であった。

参考資料:映像文化協会『教えられなかった戦争・フィリピン編』・『ブリタニカ国際大百科事典』・Wikipedia「フィリピンの戦い」2020.3.19閲覧


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