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「静岡平和資料館をつくる会」10周年記念・所蔵品展
赤紙が来た

  出征風景
昭和という時代、戦争ばかりが続き、1000万人あまりの男が戦場にかりだされました。

 そのほとんどの人たちは、日常の生活の中から「赤紙」・召集令状で戦争によびだされたのです。

 その一人、中電の技手・松永重吉さんの生と死が、そのまま日本のあゆみだったことを、1988年の今、あらためて考えてみました。
その他のコーナーは… 写真/山梨竜平さん撮影
伊藤吉治さんの中支戦線
戦時経済と国債
戦時中の暮らしと統制


期間/ 1998年4月17日〜7月12日
会場/ 旧静岡平和資料センター


展示会のようす
展示会のようす こんなことがありました
赤紙が来た展から

展示「赤紙が来た」開催中のこと、「『赤紙』を出した方の者として、見ておかなければと思いやってきました」穏やかな口調でそうおっしゃったのは、市内にお住まいの池田政弘さん(82歳)でした。

静岡出身の池田さんは現役で九段の近衛第二連隊に入隊しました。
1940年からは横浜の連隊区司令部で徴兵検査、動員などの業務に携わってきたそうです。
展示品を見つめる来館者
1943年頃になると戦線拡大により、連日師団司令部から召集指令がきましたが、次第に適応する人数も不足し、高齢者や軍隊での訓練を受けたことのない人にも多数の赤紙を発行したとのこと。個人の基礎情報(軍歴、戸籍、特業、免許など)が書き込まれた在郷軍人名簿を繰りながら、一枚ずつ赤紙を挟み込んでいくのだそうです。当然その赤紙を挟まれた人は、召集されていきました…。「<人>の扱いじゃなかった」と池田さん。

「戦時中は赤紙を出すのが仕事でした。疑問を差し挟む余地もなかった。帰らぬ人となられた多くの方々とご遺族の方々を思う時、哀悼の言葉しかありません。二度とあってはならないことです」男子国民をすべて傭兵とみなしいつでも召集できるように、個人情報を国の管理下に置いた時代。その情報を基に召集者を選んできた池田さんは、こう語ってくれました。

「静岡平和資料館をつくる会ニュースレター」36より


主催/静岡平和資料館をつくる会