核開発競争とビキニ水爆実験 ― 「第五福竜丸」と延べ992隻の被災船

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 核兵器製造能力を持った国が軍事的に優位に立つことが明らかになると、核軍拡競争が起こり、ソ連やアメリカはさらに威力の大きい水爆開発にのりだしました。そしてアメリカは1954年大規模な水爆実験を実施します。

 


第五福竜丸 (山田育代さん撮影)

<ビキニ水爆実験と「第五福竜丸」>

 アメリカは1954年3月~5月、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁を中心に、水爆実験を6回実施しました。
 3月1日、焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」は、初回の核爆発実験「ブラボー」に遭遇。「ブラボー」の破壊力は広島原爆の約1000倍といわれています。乗組員23人は、核爆発によって生じた放射性物質を含むチリなど、いわゆる「死の灰」を浴びて被爆しました。3月14日、焼津に帰港するとその日のうちに診察を受け、数日後に急性放射能症と病名が発表されます。3月16日、読売新聞が「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」と衝撃的な見出しで報道すると、日本だけではなく、世界の耳目が焼津の街に集まるようになりました。


ちらし(青島義雄さん寄贈)
静岡県発行

 放射能に汚染されたマグロやサメは、すべて廃棄処分になり、「放射能マグロ」「原子マグロ」と恐れられ、ほかの魚も売れなくなってしまいました。第五福竜丸の被災と汚染魚の大量廃棄は、国民を恐怖に落とし入れ、全国で水爆実験反対・原水爆禁止署名運動が自発的に取組まれるようになりました。そして9月23日、日本中の人々が回復を願って注視していた無線長の久保山愛吉さんが亡くなると、原水爆禁止運動は大きなうねりとなって世界に広がっていったのです。
 ビキニ環礁の「死の灰」は、核実験地とされた太平洋の島民にも降り注ぎました。ロンゲラップ島の人々は実験50時間後に「救出」されたものの、今も故郷を奪われ、放射能の不安の中で生きています。


「太平洋核被災支援センター」山下正寿さん提供

東京都立第五福竜丸展示館 提供

 

(参考:毎日新聞、東京新聞、『第五福竜丸は航海中』 『ビキニの海は忘れない』 他)

<第五福竜丸以外に延べ992隻が被災>
 ビキニ水爆実験では「第五福竜丸」以外に多くの被災船が存在したことはあまり知られていません。しかし、水産庁では延べ992隻(実数550隻)の被災船を把握していました。被災船の約3分の1は高知船籍でした。
 一方、翌年の1955年、日米両政府は、見舞金200万ドルで政治決着させます。以降、マグロの検査は中止され、第五福竜丸以外の船員の被災記録は公開されず、健康状況が追跡調査されることはありませんでした。
 しかし、1985年、当時高校教諭と高知の高校生らでつくる「幡多高校生ゼミナール」が、400人に上る元船員や遺族などから聞き取りを続け、被災船の多くの乗組員が脳腫瘍や白血病、がん等で亡くなっている事実を明らかにしました。さらにそれを裏付ける被災記録を市民団体「太平洋核被災支援センター」が米国国務省から入手。2014年に、船員の放射能汚染や漁船の航路記録が確認できたのです。
 こうした取り組みを受けて2016年、高知県の被災船員らは国に対し賠償責任を求めて提訴します。元船員らを支援する「太平洋核被災支援センター」は30年以上にわたり、調査・救済活動を続けてきました。かつて証言をしてくれた多くの元船員は既に亡くなっています。
 2019年の高松高裁判決は「国が意図的に隠し続けてきた証拠はない」などとして訴えを退けました。しかし、判決は「漁船員が操業中に被爆したこと」「原告の要求はヒロシマ・ナガサキのヒバクシャと共通する」などと、第五福竜丸以外の船員の被爆を認め、さらに救済の道を示唆した歴史的な内容でした。一方、船員保険法の適用を求めて提出した労災が「不承認」にされるなど、闘いはまだ続きます。
(参考:『ビキニの海は忘れない』、ビキニ被災支援ニュース)