戦後の暮らし―敗戦と占領政策

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 1945年(昭和20)8月14日、日本政府はポツダム宣言受諾を連合国に通告し、無条件降伏します。翌15日に天皇はラジオ放送で戦争終結を国民に伝えました。敗戦後、日本は7年間にわたりアメリカ主力の連合国軍の占領下に置かれます。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府を通じて支配する間接統治でした。静岡市には1945年11月占領軍約1400人が進駐しました。1950年ごろには高松のマッケンジー邸に、治安状況のスパイ活動を任務とする「対敵諜報部隊」(CIC)が駐屯しました。

 静岡県庁前で記念撮影する占領軍と小林知事(前列右から2人目)
(1949年山崎鋭一さん撮影)

 

続く食糧難

闇市風景(写真提供 七間町名店街)

 敗戦後、人々が直面したのは深刻な食糧難とインフレによる生活難でした。米は遅配、欠配が続き、雑炊暮らしが多くなりました。1945年9月26日の静岡新聞では「静岡市内の国民学校でお弁当の盗難や中み盗み食いが頻発」と報じています。そのなかで、1947年1月から静岡・浜松・沼津・清水・熱海・三島・富士宮の7市で学校給食が始まりました。連合軍総司令部・ララ委員会・ユニセフ等による物資の援助を受け、実施されたものです。当初は魚の缶詰だったのが、ミルク、みそ汁給食になり、小学校で完全給食が実施されるようになったのは1951年でした。

(参考:『激動の昭和史 静岡県下巻』)

 戦争末期から続く悲惨な栄養状態は子どもたちの発育に大きな影響を与えました。ちなみに14歳男子の平均身長(平均体重)を比べてみると、1939年度152.1センチ(43.6キロ)が、1948年度は146.0センチ(38.9キロ)と、身長は6.1センチ低く、体重は4.7キロも減少しているのがわかります。1939年度の水準まで回復したのは1956年でした。

(参考:「学校保健統計調査報告書」)

 

日本の民主化と憲法

 GHQの当初の占領目的は、日本の非軍事化と民主化でした。
 一方で1945年9月から1952年サンフランシスコ講和条約で直接占領が終わるまでプレスコード(新聞編集基準)をしき、言論を厳しく統制しました。
 1945年10月、GHQは日本政府に憲法改正および女性の解放などの五大改革を指示し、これに基づいて政府はさまざまな改革を実施していきました。主権在民・平和主義・基本的人権の尊重を三原則とする新憲法(1947年5月3日施行)は、日本の非軍事化・民主化を象徴するものです。

『初等科国語 四』(戦後使用)

写真「新憲法を祝う静岡市役所の風景」

『あたらしい憲法のはなし』

 『あたらしい憲法のはなし』は、日本国憲法が公布された翌年1947年 (昭和22)8月2日に、文部省が発行した中学1年生用の社会科の教科書である。学校だけではなく、広く社会教育でも活用された。日本国憲法の精神や内容を易しく解説している。
 この中で、「戦争の放棄」について、「放棄」とは「すててしまう」ことだと明記して、次のように述べている。「みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。」
 民主主義と国際平和主義が、人類が生きていく上で唯一の道だと語る当時の文部省の熱気が伝わってくる。かつて戦争の傷跡が色濃く残る中、人々が万感の思いで迎え入れた日本国憲法。その精神を『あたらしい憲法のはなし』は、私たちに思い起こさせてくれる。
参考:山住正巳『日本教育小史』

 
 

商店街の復興

 

静岡市

 たび重なる空襲によって、静岡市の人口は1945年3月の21万5千人から敗戦時16万5千人に激減していました。市は9月20日、復興土地区画整理事業を決定し、10月25日には乏しい資材を使い、戦災者の住宅を建て始めました。市の復興計画は1964年度まで続き、都市公園の整備など市民の憩いの場も増えていきます。また中心市街地呉服町は1953年11月アーケード街となり、1958年には耐火名店街ビルが完成、七間町の映画館街と共に市民の「お街」は復興しました。

(参考:1969年発行『静岡市史近代』)

 

清水市

 1947年4月5日、清水市でも初の市長公選が行われ、清水港はこの年から5ヵ年計画で改修が実施されました。さらに市を中心に清水漁港の改良、清水港の改修促進と第一種重要港湾に編入するよう運輸省に陳情しました。同年、市は清水商工会議所と連名で「みなと祭り」の開催を呼びかけ、8月3・4日、神輿、山車、マラソン大会、芸能大会、仕掛け花火を実施。多くの市民に元気を与えました。
 1952年2月、清水港は特定重要港湾の指定を受け、外国貿易の上でも日本の代表的港湾として認められます。市街地では1956年度から10ヵ年計画で、清水銀座の燃えない街づくりが始まりました。

(参考:1986年発行『清水市史第3巻』)

セントラル劇場
(写真提供 七間町名店街)