日本の防空体制と静岡

※写真をクリックすると拡大表示されます。

 航空機による空爆戦を想定した日本は1937年(昭和12)4月に「防空法」を公布。「防空法」は国民に対して防空義務を課し、やがて「都市からの退去禁止」や「空襲時の応急消火義務」が追加され、罰則も強化されました。
 1939年には警防団がつくられ、隣組を指導し、焼夷弾の火を消す訓練などを行いました。静岡市民は度重なる訓練と毎日の灯火管制を強いられ、日常生活に警防団が介入するようになっていったのです。
 飛来する米軍機をいち早く見つけ日本軍へ伝えるために1941年12月に防空監視哨が各地に置かれました。
 空襲が頻繁になると、屋外に防空壕を掘るよう、内務省より各家庭に命令が出されました。しかし、資材が不足する中、畳をあげて床に穴を掘っただけの防空壕も珍しくはなく、実際の空襲では防空壕内で亡くなった人も多かったのです。
 いずれにしてもこれら防空体制は、国家防衛を目的としたもので、国民を守るものではありませんでした。

写真「消火訓練」
写真「消火訓練」

(山梨龍平さん撮影)

写真「清水防空監視哨」
写真「清水防空監視哨」

(丸山逸雄さん寄贈)

 

灯火管制用電球
灯火管制用電球

(藤安義勝さん寄贈)

灯火管制用電灯傘
灯火管制用電灯傘

(長島麻夫さん寄贈)

空襲警報板
空襲警報板

(早川克美さん寄贈)

 

火たたき(複製)
火たたき(複製)

(平和資料センター製作)

防空頭巾
防空頭巾

(鈴木孝子さん寄贈)

 

 防空監視哨――帝国陸軍の組織で、敵機を発見したら直ちに防衛司令官に報告する役目を担った。敵機に対して軍備を整え、近隣住民に警報を発令した。主に青年学校の生徒が動員され、太平洋戦争が始まったころからは、24時間体制で行われた。1944年11月1日に初めて日本に飛来したB29を識別したのも、伊豆半島の稲取の防空監視哨の青年だった。