静岡空襲 1945年6月20日 / 清水空襲 1945年7月7日

静岡空襲 1945年6月20日

 

 グアム島を飛び立ったB29は、静岡地区上空に低空で侵入、123機で爆撃を開始しました。最初に焼夷弾が投下されたのは、20日0時51分でした。瞬く間に火災は静岡駅周辺から市役所・県庁等、市の中心部に広がり、呉服町・鷹匠町・水落町、そして末広・安西・番町方面にも火炎の嵐が吹き荒れました。安倍川には焼夷弾の油脂が流れ、引火して、避難してきた多くの人が犠牲となったのです。

 この時投下されたのは、M69焼夷弾とM47焼夷弾が合計787トン。約2時間で市街地5.9㎢ (米軍が目標とした市街地の66% )が焼失し、1800人以上の命が奪われました。

 6月19-20日の第2回中小都市空襲では、静岡のほか豊橋・福岡も目標とされました。

静岡リト・モザイク

 1945年2月に作成された静岡市街地のリト・モザイク(石版集成図)。
 米軍は、どの地点を攻撃すれば最も効率よく市街地を焼き払うことができるかを分析し、決めた。この点を「爆撃中心点」とよぶ。
 静岡市の爆撃中心点は本通と呉服町の交差点に設定されていた。
 この点を中心に半径1.2㎞の円を描き、円内に投下焼夷弾の半量が着弾すれば、静岡市の主要部分は壊滅すると考えていた。

中小都市空襲のために選ばれた日本の180の市街地リストの一部。清水は71番目

 
 
 
 

清水空襲 1945年7月7日

 

 テニアン島を発進したB29は133機で清水地区上空に侵入。爆撃中心点は巴川と東海道線の交差する地点です。燃焼性の高いM47焼夷弾と、強力な貫通力を持つM50焼夷弾の組み合わせで合計934トンが投下されました。0時33分から約1時間30分の間に街は炎上。火を逃れて港の海や巴川、また港橋や万世橋の下に身を隠した人々の中には、水かさの増した川に流されて溺死した人もいました。この時の空襲で、米軍が目標とした清水市街の50% が焼失、151人の命が奪われました。

 7月6-7日の第6回中小都市空襲では、清水のほか千葉・明石・甲府も目標とされました。
 また、7月31日未明の艦砲射撃は清水の人々を恐怖に落とし入れました。相生町、松原町、中町、美濃輪、下清水が被害を受け、44人が犠牲になりました。

清水リト・モザイク

 1945年3月に作成された清水市街地のリト・モザイク。
 清水の爆撃中心点は巴川と東海道線の交差する地点に設定された。

 静岡・清水は1944年の暮から敗戦までの間に米軍による空襲と艦砲射撃を26回受けています。1945年4月4日の三菱重工業静岡発動機製作所(軍需工場)をターゲットとした空襲は目標をはずれ、住民に多くの犠牲者を出しました。静岡・清水両地区で194人の命が奪われたのです。