【証言3】平沢観音付近で地下壕に迷い込んだ - 植田勤之助さん –

【証言③】有度山周辺

平沢観音付近で地下壕に迷い込んだ

植田勤之助(うえだ きんのすけ)さんの手記(当時 県立清水中学校3年 学徒勤労動員)

1930(昭和5)年生まれ

「迷 路」

 「オイ、コラ!」「貴様たちどうしてここへ来たのだ、ここは入ってはいかん、すぐ出ていけ、早く戻れ」突然大声で怒鳴られた。振り返ると戦闘帽を冠った下士官が顔を真っ赤にして突っ立っている。こりゃマズイ!一緒にいた仲間(この時の仲間は多分私と二人だけだったと思うが誰だったか思い出せない)と慌てて逃げ出した。昭和20年の夏の暑い日だった。

 前年12月、未曽有の大地震に見舞われ、米軍の空襲が始まって学校も学業を中断し、動員されて勤労奉仕や工場労働に就いていた。私たちのクラスは清水精機の工場で昼夜三交替の激務に就き、飛行機部品製造の工作機械を動かして6か月程経った7月の半ば、清水の街は焼夷弾の空襲で焼け野原、幸いにも工場は極く一部を除いて焼け残ったが、急遽山梨県へ工場を疎開することとなって機械の撤去作業が始まり動員解除となった。

中学2年ごろの植田さん(右端)
中学2年ごろの植田さん(右端)

 今度は、弁当持ちで朝8時に平澤寺に集合を指示された。それからは、毎日二人一組で角材を運ぶ労働に明け暮れた。平澤寺のいちばん奥の辺り(多分今の草薙団地のスポーツ広場と神社の境い目辺り)から横穴に入って作業現場まで運ぶことの繰り返し。坑道は角材をビッシリと並べたトンネルで資材がないからコンクリートは全然つかわれていない。ところどころに裸電球がぶら下がってはいるが暗く、且つ、下は土の剥きだしで滑り易く歩き難いことこのうえもない。角材を運んだトコロから奥の方の作業はすべて兵隊の仕事となっていて土を掘り、掘った土をモッコで担ぎ運び出している。トンネルは曲がりくねっており、また、いくつも分岐されていて迷いこんだら出てこられないのではないかのような迷路である。

中学2年ごろの植田さん(左から2人目)
中学2年ごろの植田さん(左から2人目)

 ある日、角材担ぎの仕事をサボッテ、仲間とこの迷路に挑戦した。いつもの作業のトンネルから途中で分岐した右方向を偵察しようと入り込み。右へ別れたり、左へ折れたり、もと来た道がわからなくなってしまうのではないかと心細くなる程歩いたら、急に広くなり明るくなった。そこは10畳よりやや広いくらいの円形にちかい空間で床も壁もコンクリートで固められていた。四角い窓から入る光で明るくなっていたのだ。そっと窓に近づいて外を覗くと右に谷津山、左に八幡山、静岡の中心地が目の前のすぐそこに広がって見えた。その景色に見とれていた時「オイ、コラ」の雷が落ちたのだ、考えてみればここは地下壕であり、入り込んだ場所は砲台、窓は銃眼であったのだ。まもなく大砲を据え付ける完成間際の場所へ入り込んでしまったのだから雷が落ちるのも当り前。要塞の完成が近づいたのか、それから間もなく民間人は立ち入り禁止となり我々の動員も解除となった。次に動員されたのが岩淵の山の要塞造りの穴掘りであり、その初日が8月15日であったのだ。

 あの日から50有余年。平澤寺の横を通るたびにあの時のことが思い浮かんできます。あの砲台の銃眼から覗いた景色、あの場所はどの辺りであろうか。現在の動物園の辺りだろうか、または、聖光学園辺りであろうか、そんなことを思い出す今日この頃です。

〔2019年5月3日〕

*午羊会編『午羊会のうた清水中学校卒業50年記念文集』(午羊会〔県立清水中学校第21回生〕、1998年)所収

「迷路」を一部修正


展示第三室TOPにもどる